商売の極意を尋ねられて「聞くこと」と答えたのは、ベテラン経営者のT氏です。
極意のきっかけは、その昔、夫婦で泊まった温泉宿とのこと。
その宿は人里離れた場所に一軒だけぽつんとある民家のような旅館で、予約の電話をしたときに部屋にテレビがないと聞かされたときは「夫婦二人で間が持つだろうか」と心配になったそうです。
ところが行ってみればなんてことはなく、遠くから聞こえるホトトギスの声、山里を吹き抜ける風の音、その風が木々を揺らせばサワサワと葉音が鳴り、夜は夜で耳を澄ませば「静けさ」という音が聞こえてくるようで、今までにないくらい心休まるひとときだったといいます。
何よりの発見は「奥さんの声」だったそうです。
普段はテレビに奪われていた耳を奥さんに向けたことで「この人はこんな声だったのか」と改めてしみじみしたのだとか。
そのせいか、いつもなら何となく聞き流す奥さんの話を、その夜は耳を傾ける気持ちで聞いたそうです。
「そしたら不思議なんだけど奥さんの表情がやわらかくなって。そうなるとこっちも笑顔になるから自然と会話が弾んでね。翌朝には恥ずかしながら手をつないで朝の散歩を楽しんだよ」。
散歩の途中、いつもより優しい声で話している自分に気付いたT氏は、いつもより晴れやかな笑顔を向ける奥さんを見て思ったそうです。
自分は今までどんな態度でお客さまの話を聞いてきただろう。
どんな風にお客さまに話し掛けてきただろう――。
詩人の山崎佳代子氏はかつて、講演でこんな話をされました。
「声は人の魂を結びつける。声を出すときはみんなに届くように出し、声を聴くときは心を込めて聴く。この二つが欠けると社会はほころびる」。
伝えたいことがお客さまに届くように話し、心を込めてお客さまの話に耳を傾ける。
この二つが欠けると商売もほころびてくるかもしれません。
話したり聞いたりは毎日のことです。
どんな態度で、どんな心持ちで行うか、それが大事なのではないでしょうか。