2021.07.15更新

 商売では「お客さまのため」という言葉をよく聞きますが、この言葉があだになることもあるようです。

 ある有名企業でのお話。新入社員のAさんが「お客さまのためには○○がいいと思います」と上司に提案したところ「うちでは“お客さまのために”と考える社員はいらない」と言われて驚いたそうです。

 その会社が社員に求めているのは「お客さまのため」ではなく「お客さまの立場で考える」ことでした。

 その会社によれば「お客さまのため」とは、川の向こう側にいる人に一方的にボールを投げるようなもので、売り手の思い込みや決めつけを一方的に押し付けているのと変わらない。

 つまり、売り手の立場で考えている限り、お客さまが本当に望んでいることを探し出すことはできないという教えでしょう。

 たしかに売り手のものさしで相手をはかると、理解はされても共感は得にくくなります。

 一方「お客さまの立場で考える」とは、相手の状況を考慮して想像しながら行動すること。

 お客さまが望んでいることを探り出すためには、自分が良いと思うことの真逆を提案することもあれば、自分の経験や知識を否定して、さらには自分のやり方を変えるところまで踏み込んで考え直さないといけないこともある。

 そこまでするからこそ、お客さまが本当に望んでいることにたどり着けると言われたそうです。

 Aさんは、最初の頃こそ「“お客さまのため”の何がいけないのか」と理不尽に感じたものの、ふと「お客さまのため」と言いながら結局は自分目線で行動していることに気付いたそうです。

 自分のできる範囲でやろうとしたり、今の仕組みの中で解決しようとするのは、自分目線で自分都合の行動に過ぎない。

 お客さまの立場で考えるとは、自分たちに不都合なことでも実行するというお客さま目線であり、お客さまの都合を最優先した選択である。

 入社から3年経ったとき、お客さまから「君に出会えてよかったよ」と言ってもらえたAさんは、今でも「お客さまの立場で考える」を日々実践しているそうです。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.06.15更新

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきか」。

 桶狭間の戦いの前夜、天下統一への第一歩を踏み出そうとしていた織田信長が謡い舞ったという「敦盛(あつもり)」の有名な一節は、人の世の50年の歳月は天界の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだと解釈されています。

 人の世の時のはかなさを意味するこの一節が、信長の琴線に触れたのかもしれません。

 それから460年以上が経ち、今や「人生100年」の時代を私たちは生きています。

 人生の時間が長くなった分、何が変わったのでしょうか。

 お釈迦様にこんな逸話があります。

 あるときお釈迦様が弟子たちに尋ねました。

 「人生の長さがどのくらいあるか、お前たちは知っているか?」。

 弟子の1人が答えます。「50年くらいでしょうか」。

 お釈迦様は首を横に振りました。「では、40年くらいですか」。別の弟子の答えにもお釈迦様は首を横に振ります。

 「30年」「20年」「10年」「1年」弟子たちは次々と答え、最後に「1時間」と答えてもお釈迦様は首を縦に振りません。

 そしておもむろにこう言ったそうです。

 「ひと呼吸の間である」。

 つまり、人生とは一瞬だとお釈迦様は言いたかったのでしょう。

 50年であろうと100年であろうと、人生は一瞬、一瞬の積み重ねです。

 一瞬の累計が50年か100年かの違いだけで、今この瞬間を生きることに変わりはありません。

 「今」という一瞬に集中しようと思ったら、あれもこれもはできません。

 本質的な課題は何か。その見極めは商売でも肝心要です。

 天界の時間に比べれば一瞬の幻に過ぎない人の世ですが、今できることに集中して、それが自分を含めた周囲の喜びや楽しみとなれば、それ以上に良いことはないでしょう。

 難しい問題をかかえているとしても、今できることをひとつずつやっていくことで困難を喜びに変えていく。

 そんな仕事を、そんな日々を積み重ねていけるのは、何にも増して豊かでありがたいことであると思うこの頃です。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.05.15更新

 NHKの人気番組のひとつに『プロフェッショナル 仕事の流儀』があります。

 さまざまな分野で活躍する人たちに密着しながら「あなたにとってのプロフェッショナルとは?」という質問で番組は山場を迎えます。

 答えはもちろん人ぞれぞれですが、そこに一般論はありません。

 誰もが自分の経験から導き出した自分なりの信念を持って仕事に取り組んでいることが伝わってくるシーンです。

 若い頃から車が大好きだったというN氏は、アマチュアのレーシングドライバーとして運転の腕を磨いてきました。

 65歳の今でも、愛車のGT-Rで峠を攻めるために筋トレを欠かしません。

 体幹がぶれると動作が遅くなるからだそうです。

 そんな彼に「プロドライバーとはどんな人ですか?」と聞いてみたことがあります。

 N氏の答えは拍子抜けするほどシンプルなものでした。

 「普通の運転がきちんとできる。それがプロドライバーです」。

 もう少し詳しく聞くと、言わんとすることが理解できました。

 「きちんと」とは「丁寧」ということ。

 丁寧にブレーキを踏めば急ブレーキをかけなくて済む。

 丁寧にハンドルを切れば急ハンドルを切らずに済む。

 丁寧さは安心感であり、だから助手席の人は安心して乗っていられる。

 つまりスピードが速くても、路面が悪くても、曲がりくねった道でも、どんな状況でも普通の運転がきちんとできることがプロドライバーであるということでした。

 からくり人形師の九代目玉屋庄兵衛さんも『プロフェッショナル』に出演した際、「プロフェッショナルとは、与えられた仕事を丁寧に仕上げること」と答えていました。

 商売がうまくいっている人からは「当たり前のことを当たり前にやっているだけ」と聞いたことがあります。

 要するに、雑な仕事では話にならないということでしょう。

 「丁寧」は簡単なようでいて、実は奥の深い流儀です。

 内心に尊大な気持ちがあれば、目利きの人にはすぐに見破られてしまいます。

 普通のことを丁寧に、当たり前のことを当たり前に。そんな商売をしていきたいものですね。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.04.15更新

 昨年、初めてマラソン大会に挑戦した知人がいます。自慢の体力で初マラソンもなんとかなるだろうと高をくくっていたようですが、実際は行くも地獄、戻るも地獄。

 「もうやめたい」と「まだやれる」の間を行きつ戻りつしながら何とか完走すると、想像以上の達成感で走っている最中の苦しみがパーッと吹っ飛び、また走りたいという気持ちがむくむくと湧き上がったそうです。

 「あのとき途中でリタイアしていたら苦しみや辛さだけが残ってしまって、二度とマラソンをやろうとは思わないだろう」。

 彼の心境は商売にも通じる成功のヒケツともいえます。

 傍らから見ても大変な目に遭った人が笑って苦労話をできるのは、自分が満足するまでやったから。

 やり遂げたという満足感は、それまでの苦労や辛さに対しても「ありがとう!」と言えるほど力強いパワーになるということです。

 経営の神様と呼ばれた松下幸之助も「成功とは成功するまでやり続けることで、失敗とは成功するまでやり続けないことだ」と言っています。

 ただ、途中でやめるのがよくないわけではなく「大変だ」「苦しい」「辛い」と感じている最中にやめてしまうと「次の一歩」も「気持ちの一歩」も止まってしまうのでしょう。

 コロナで二極化が進むといわれる世の中で、元の世界に戻ることを期待している人と、これぞチャンスと新たなチャレンジに挑む人との二極化も明らかになっています。

 シドニーオリンピック・女子マラソンの金メダリスト高橋尚子さんは、結果が出ないときも「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。

 やがて大きな花が咲く」の言葉を励みに練習を続けたというのは有名な話です。

 何が起きてもおかしくない正解のない時代だからこそ、自分の感覚を信頼して、自分で創り上げるというアクションが大事になるのではないでしょうか。

 まだできると思ううちは粘り強くやり続け、やめるときは潔く。

 とはいえ一人の戦いは寂しいものです。

 ぜひとも良い仲間を増やして、お互いに切磋琢磨を積み重ねていけるのが理想ですね。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.03.15更新

 10年前の2011年は「水」の年だといわれました。

 世界各地で水害が相次ぎ、日本では甚大な震災による大津波が、尊い命や人々の生活や大事な思い出を奪っていきました。

 水にまつわる悲しい出来事が多かった一方、夢のある「水」の話題もありました。

 アメリカ航空宇宙局(NASA)によれば、太陽系以外で約1200個の惑星候補が発見され、そのうち54個には生命に欠かせない水が存在する可能性があるとのことでした。

 水と空気のある地球は「奇跡の星」と呼ばれますが、奇跡の星がほかにもあるかもしれないと話題になった記憶があります。

 命を育む一方で命を奪っていく水。

 水に感謝しても、水を恨んでも、水はただ水としてそこにあるだけです。

 それが現実というものであり、あるがままの現実を受け入れることで私たちは自然と共生していけるのでしょう。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。

 川の水は絶えることがなく、しかも決して同じ水ではないという『方丈記』の冒頭の一節は、常に遷(うつ)り変わっていくこの世のはかなさを説いています。

 すべてのものは刻一刻と変化して、世の中は思い通りにいきません。

 それを重々承知の上でも、こんなはずではなかったと嘆きたくなることもあります。

 頭で分かっていても心がついていかない。その時間のどれほど苦しいことでしょう。

 その苦しみから自分を解放するには現実を受け入れるしかありません。

 1994年に起こった松本サリン事件で一時、犯人扱いされた河野義行さんを覚えているでしょうか。

 本人は犯人と疑われ、奥さまはサリン被害で意識が戻らず、長い療養生活の末に亡くなられました。

 それでも河野さんは言います。「現実は現実。与えられた人生を恨みの感情で生きるのは損。与えられた現実の中で最大限に生きる」。

 どうにもならない現実を肯定する勇気が私たちに気づきや想像力を与えてくれます。

 頑張っているのに何も変わらないと思うのは、ゆく河が止まって見えるのと同じこと。

 行動していれば物事は確実に進んでいきます。歩みを止めずに共に行きましょう。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.02.15更新

 冬の寒さがピークを過ぎれば「春眠暁を覚えず」のフレーズが口をついて出る季節がやってきます。

 それにしても、春にむさぼる惰眠の気持ち良いこと。

 「あと5分、あと3分だけ」と惰眠をむさぼるのは、ささやかにしてぜいたくな瞬間ですね。

 ところで最近では「スローライフ」や「ロハス」が再び注目されるようになりました。

 健康や地球環境を意識したロハスというライフスタイルが、日本でブームになったのは15年ほど前。

 昨年から世界中を騒がせている出来事は、無駄を省いて便利に効率よく生きることが良しとされてきた風潮に一石を投じたように感じます。

 転じて商売の面で考えてみると、効率重視でやってきた会社は、今までのやり方が通用しない場面が増えているのではないでしょうか。

 労力や手間を喜びや満足に変えるエネルギーが枯れてしまうと、一事が万事で仕事も味気なくなり、いざという時の踏ん張りも効きづらくなるものです。

 ダメージの度合いは業種業態にもよりますが、変化やチャレンジをいとわず柔軟に行動し続けている会社は、このピンチをチャンスに変えているようにも思います。

 例えば歩くスピードを緩めると、道端に咲いている名もない花の美しさに目が留まり、早春の日差しのやわらかさを肌で感じます。

 心の速度はスローダウンさせ、時には立ち止まってあたりを見渡し、けれどいざ行動するときは素早く動く。このようなメリハリが、これからの不確かな時代を乗りこなしていく商売の在り方ではないかと思うのです。

 「この世は一冊の美しい書物である。しかしそれを読めない人間にとっては何の役にも立たない」これはゴルドーニュの言葉です。

 学ぼうという気持ちがあれば、起こる出来事すべてから多くを学べるという教えはその通りでしょう。

 その意味で、この世は一冊の美しい書物だといえます。

 あとは、それを読みこなそうとする、どんな困難にも屈しない強い気持ちがあるかどうか。

 春眠をむさぼりつつ、よく目を凝らしながら世の中の流れをしっかり見ていきたいものです。

投稿者: 伯税務会計事務所

2021.01.15更新

 お正月の華やかな気分も寒の入りを過ぎる頃には落ち着いて日常が戻ってきます。

 二十四節気の「小寒」の次候にあたる1月11~15日頃は、七十二候の「水泉動」。

 「しみずあたたかをふくむ」と読みます。

 ちょうど1年でいちばん寒い時季ですが、地中では陽気が生じ、凍った泉では少しずつ水が動き始めている様子を表す言葉が「水泉動」です。

 あたり一面が冬枯れた晩冬の景色には一見、生命の躍動を感じさせるものは何もありません。

 しかし、身がすくむような寒さでいてついた地面の下では、ほんの少しずつ春に向けた準備が始まっています。

 目に見えない自然の変化を見逃さず「水泉動」と表現した先人の鋭い観察眼や美意識。

 文明の発達と引き替えに私たちがこうした細やかさを失いつつあるとしたら、それはとても残念であり寂しくもあります。

 日本語の「文明」と「文化」は同じように使われますが、この2つは似て非なるものであると考えているのは生物学者の福岡伸一氏です。

 福岡氏いわく「文明は人間が自分の外側に作り出したある仕組み」。

 電気、携帯電話、インターネットなど、生活の便利さ快適さ効率を追及するために作られたものです。

 一方の文化とは「人間が自分たちの内部に育ててきた仕組み」。

 私たちの歴史と共にあり、土地に依存して風土に寄り添い、私たちの生命を守って生活を支えてきたものを福岡氏は文化と呼びます。

 現代はずいぶん文明寄りになっていると感じますが、ここ数年「アート思考」が注目されるようにもなりました。

 大雑把にいえば、自分だけのものの見方であり、既成概念の外し方と表現する人もいます。

 「これからは経営セミナーより美術館」だと言って、美意識を鍛える経営者が増えているとも聞きます。

 厳冬でも地中に春が眠っているように、先人から受け継がれてきた文化は私たちの中にあります。

 自然がゆっくりと春に向かっていくように、ここで改めて文化に触れ、より心のこもった商売をしていきたい。

 そんなことを考えた新年でした。

投稿者: 伯税務会計事務所

2020.12.15更新

 大みそかの夜を「除夜」というのは、一年の最後の日ごよみを「除く」「夜」から来ているそうです。

 暮れゆく年を惜しみつつ、新しい年を迎えるための行事のひとつが「除夜の鐘」です。行く年来る年をまたぐ除夜の鐘は108回つかれますが、これは「煩悩の数」という説が有名です。

 煩悩とは、自分を悩ませるものや心を乱すもののこと。

 仏教の根本的な考え方でいうと、人の煩悩は大きく三つあるそうです。

 一つ目は「貪(とん)」。必要以上に欲しがること。

 二つ目は「瞋(じん)」。自分の心に執着して思い通りにならないと怒ること。

 三つ目は「痴(ち)」。無知で愚かな考え方にとらわれること。

 三つ合わせて「三毒(さんどく)」と呼ばれています。

 つまり私たち人間は「欲」と「怒り」と「愚かさ」で心を乱しているのです。

 すでに十分持っているはずなのに「もっと、もっと」と欲しがるのが「欲」です。

 欲の対象はモノに限りません。

 私たちはしょっちゅう他人と自分を比べては「もっと○○だったら良かったのに」と嘆いたりします。

 思い通りにならないのが世の中なのに、自分が知っている世界だけでものを考えていると、いつもイライラしながら暮らすことになります。

 そうやって自分で煩悩を生み出してしまうのが人間の愚かさなのでしょう。

 今年は世界中の人たちが同じ困難に直面するという前代未聞の年でした。

 そんな逆境の中でも復活が早かったのは「三毒」と距離を置いている人たちや商売だったように思います。

 実際にSNSでは「こんな時だからこそペイフォワードの精神で」という呼びかけをたくさん目にしました。

 ペイフォワードとは、受けた恩を別の人に渡すこと。

 日本の「恩送り」の精神です。自分だけが良ければいいというのは、じわじわと自分の首を絞めているのと同じことです。

 お互いに助け合うほうが全てにおいて楽ですし、めぐりめぐった厚意はいずれ自分に返ってくるでしょう。

 今の世の中の状況は、私たちに「利己か利他か」を問いかけているようにも思えます。

投稿者: 伯税務会計事務所

2020.11.15更新

 小柄だと不利なことが多いスポーツ界において、大柄な選手に勝る活躍をしている人を「小さな巨人」といったりします。

 町工場を営むT社長は今年、何度も「小さな巨人」という言葉を思い出しているそうです。 

 それは、30代後半で自分の工場を始めたとき、心の師と仰いでいる人から送られたエールでした。

 世の中の景気の低迷で仕事がままならない今の時期に、恩師の言葉を思い出して「小さな巨人を目指してもうひと踏ん張り!」と自分を鼓舞しているそうです。

 普段はまったく思い出すこともないのに、ふとした瞬間に浮かんでくるうれしい記憶があります。

 例えば幼い頃、近所のおばあちゃんに「あんたはいい子だねぇ」と頭をなでてもらったこと。

 算数のテストが12点だったとき「名前が上手に書けたから」とナイショで3点をおまけしてくれた担任の先生。

 退職するとき、それほど親しくなかった人から「あなたの明るさにいつも励まされていました」とお礼を言われたこと。

 その多くはたいがい小さな出来事であり、とても個人的なものですが、記憶の断片が花びらのように舞い降りてくると、そのとき感じたうれしさが鮮やかによみがえってきたりします。

 おばあちゃんの手の感触。担任の先生の温かいまなざし。実は自分をちゃんと見てくれていた人。

 もう何十年も前のことなのに、思い出すと今でも心強い気持ちになる。

 そんな記憶が人を支えているのではないかと思います。

 色々な人たちが自分を気にかけてくれていて、自分は大切にされていたんだなぁと気付くとき、人は感謝と共にやさしい気持ちになるものです。

 「商売が思うようにいかないこともあるけれど、そんなときこそ大切にしてもらった記憶が“自分は大丈夫!”という強さになる」とT社長は言います。

 それは根拠のない「大丈夫」かもしれないし、実のところ目の前の状況は大丈夫ではないときもあるけれど、日々淡々と「自分は大丈夫!」と感じながら生きていくことが商売の希望をつなげていくのではないでしょうか。

投稿者: 伯税務会計事務所

2020.10.15更新

 江戸時代の城下町では草履(ぞうり)が普段履きでした。

 一方、遠路を旅するときは、普段の草履よりも丈夫な履き物を使っていたそうです。

 それは今でいう靴下と草履を合わせたようなもので、山道を歩くときはさらに虫除けがついたものを用意する旅人もいたようです。

 昔の旅がほとんど徒歩だったことを思えば、旅には旅用の履き物を用意したのでしょう。

 それが転じて「状況によって履き物(靴)を替えられる人」とは、つまり「臨機応変な対応ができる人」を指すようになったという説があります。

 「おしゃれは足元から」とか「靴にこだわる人こそ本当のおしゃれ」といった俗言もこの説に由来するものかもしれません。

 たしかに「足元」は、全体に占める分量が少ない割には人目を引く部分です。

 足元にはその人のセンスが凝縮されるのでしょうか。

 また禅宗には「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という言葉があります。その意味は「足元に気を付けよ」。

 自己反省、または日常生活の直視を促す語だそうです。

 「足元」は、実にさまざまな意味を含み持つ言葉です。

 「立っている足の下」という意味はもちろん、「縁の下や土台」「履き物」も足元といいます。

 さらには「身辺」「足取り」「弱点」「足がかり」「足場」など今、置かれている状況も「足元」という言葉で比喩的に表現されます。

 「あの人は地に足がついた人だ」とか「人の足元を見る」などの言い回しがありますが、足元は無言のうちに「人となり」も物語っているようです。

 どんなに高価な靴を履いていても、その靴が泥やホコリで汚れていては、靴どころか本人の品格まで台無しです。

 逆に、多少くたびれた靴でも手入れが行き届いていれば、愛用品を大事にする心持ちが好感を呼ぶでしょう。

 足元には本質が見え隠れします。

 人の足元を見た商売はなかなかうまくいきません。

 日常を直視して、変化をいとわず、状況によって履き物を替えながら足場を固めていく。

 明日、何が起こっても不思議ではない今の時代には、地に足のついた商売こそが王道ではないかと思います。

投稿者: 伯税務会計事務所

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